世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

[読了】藤本隆志「ウィトゲンシュタイン」

今年43冊目読了。東京大学教授を経た東京大学名誉教授が、20世紀哲学の金字塔を構想したウィトゲンシュタインの波乱に満ちた生涯と思想の真髄を解き明かした一冊。


とにかく、ウィトゲンシュタイン自身の数奇な人生、その変人っぷりに驚かされるとともに、その哲学の深淵さにひたすら悩まされる。脳みそが汗をかいて思考停止する、という経験はあまりしたくないが、それを強いるような(少なくとも自分にとっては)極めて難解な中身と言わざるを得ない。己の理解力のなさを痛感する…ま、こういったことに触れられるのも読書の利点なわけだが。


相当難渋したので、まとめように迷ったが、とにかくウィトゲンシュタインの言葉を抜き出すしかできない…そもそも、ウィトゲンシュタインが「わたしは、自分の書いたものによって他のひとが自分で考える労を省くようになるのを望まない。できることなら、誰かが自分自身で考えていくための励ましになりたいと思っている」と書いているのでまとめようもないが。そして、理解できない自分を見せつけられ、励ましどころか絶望に接することになる…


言語についてのこだわりは、非常に深い。「およそ言い得るものごとは明晰にいいうる。そして、語り得ないものごとについて、ひとは沈黙しなくてはならない」「すべての現象に対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なことなど何一つなく、これらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似しているにすぎない」のあたりは、言葉を扱う人間という生物にとって深い示唆を与えてくれる。「ある語を理解しているとは、それがどのように使われているかを知っているということ、それを適用できるということだ」は、日々、粗雑に言語を扱っている自分にとっては汗顔の至りだ。筆者は「かつてひとの眼が自然や神に向いている間はことさらに問う必要のなかった言語をあえて主題化したということは、とりもなおさず人間がみずからの本質について自己反省を迫られるような状況の中にいたということであろう」と解説するが、その状況は今なお継続していると感じる。


また、思考とその限界、どこに立つか、ということについても考え抜かれている。「哲学は思考不可能なものごとを思考可能なものごとによって内側から限界づけなければならない」「論理形式を描出しうるためには、われわれは当の命題と共に論理の外側に立つことができるのでなくてはならない。すなわち、世界の外側に。」


そして、言語と限界、ということへの言及は非常に考えさせらえれる。「言語の限界へのかかる突進こそ、倫理なのである。」「わたくしの言語の限界はわたくしの世界の限界を意味する。」のあたりは、さすがとしか言いようがないが、あまりに深すぎて自分の頭では理解できない。筆者が「かれにとって、絶対に価値のあるものごととは、絶対に神秘的なものごとであって、それは有意味な言語の限界を超え出たものごと」と解釈してくれることで、ようやくうっすらと理解に辿り着くことができる。


それにしても。「われわれには非論理的なことが考えられない。さもなければ、非論理的に考えなくてはならなくなるだろうから。」とは、非論理的な自分にとっては、一度でいいから言ってみたいが、到底言えない言葉だ…「わたくしにとっては明晰さ、透明さが自己目的となる。」なんて、逆立ちしたって一生言えない。


理解できるのは「考えるな、見よ!」「われわれにとって最も重要なものごとの様相は、その単純さと平凡さによって覆い隠されている」というあたり。勉強しているU理論とも一脈通じるところがある。


筆者の解説「ひとは生れ落ちて、言葉を学び、さまざまな言挙げを弄してみずからの人生の意味を問うが、その営為の果てにやっと無に等しい人生の無意味さを諦観し得、そのことによって初めて人生の意味を悟る、といったことがありうるのではないか。」は、まさに哲学的であり、真理だと感じる。かなり手ごわい一冊だが、読む価値はある、と感じる。