今年126冊目読了。ノンフィクション・ライターの筆者が、1999年のNATOによるユーゴスラビア空爆後の6年間、コソボ紛争が解決どころかもっと酷い人権侵害の嵐に曝されている実態を浮き彫りにする一冊。
報道が「あたかも解決したかのように」ニュースで述べる事と、実態の乖離に衝撃を受ける。「アルバニア人にとって平和が訪れたと言われるコソボは、同時に非アルバニア人にとっては危険極まる魔境となっていた」「一番大きな問題はこの悲劇には名前がついていないことだ。世界の注目どころか、国内でも無視され切り捨てられる」の記述は、自分の無知がいかに恐ろしいか、を突きつけてくる。
国際社会の介入姿勢にも厳しい眼を向ける。「CIAがある思惑で育てた海外のゲリラ勢力が、様々な政治的変遷を経てブーメランのように米国に襲いかかる」「(劣化ウラン弾について)国際社会は核兵器の原料は持って行ってくれた。しかし、大地の汚染はもう元には戻らない」「援助で最も重要なのは公平性であろう。民族ごとに援助額が異なり、分割された一方だけが潤い、他方が踏みつけられたままのようなこの状況は極めていびつである。」
見えない解決への糸口にも言及。「自らの加害性を互いに自覚し合ってこそ、真の民族融和の再構築が始まるのだ」「加害、被害、抑圧、非抑圧、その連鎖の中で傷つき、自民族こそが唯一の被害者であると疑わない眼。そこには相手の悲劇に思いを巡らす想像力が決定的に欠如している」は、人間社会が内包する危険性を鋭く抉る。
著者の取材姿勢が、とてもよい。「なるほど行かずして分別できる事象も存在はするであろうが、それ以上のものが現場には山積している。その人の人生はその人の全てである。スパスパと切り分けられるものではない」「何であれ、どちらかだけが悪ととらえられない」「所詮、私は傍観者だ。記事にする、ネタにするものとして行うその取材は問題解決には程遠い。情報の搾取に過ぎない。」…本来、ジャーナリストというのはこれだけの高い見識と自覚を持ってほしいものだが…
ユーゴ内戦と分裂の経緯を全く知らないと読みづらいかもしれないが、現場のヒリヒリとした空気感がよく伝わってくる良書。一読をお勧めしたい。