世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】李栄薫「反日種族主義」

今年63冊目読了。ソウル大学経済学部教授から李承晩学堂の校長に転じて活動する筆者が、「日本支配は朝鮮に差別・抑圧・不平等をもたらした。だが、だからといって、歴史に嘘をつくことはできない」と、日韓危機の根源に切り込んだ一冊。


韓国を震撼させた一冊、ということも納得の、反日主義者からすると「こんな主張はあり得ない」というような内容。でも、非常に冷静かつ事実に基づく思索を行うトーン、そして真実に向き合おうという真摯な姿勢に好感が持てる。自分が個人的に右寄りの思想を持っているということもるが、それを抜きにしても、これは非常に学ぶところの多い本だ。


日韓の争点について「朝鮮総督府が土地調査事業を通し全国の土地の40%を国有地として奪った、という教科書の記述は、でたらめな作り話。植民地朝鮮の米を日本が収奪したという教科書の主張は、無知の所産。日帝が戦時期に朝鮮人労務者として動員し奴隷にした、という主張は、悪意の捏造。憲兵と警察が道行く処女を拉致したり、洗濯場の女たちを連行し、慰安所に引っ張っていった、という韓国人一般が持っている通念は、ただの一件もその事例が確認されていない、真っ赤な嘘を土台としたもの」と断じ「この国(※韓国のこと)の歴史学社会学は嘘の温床。この国の大学は嘘の製造工場」と厳しく批判する。


では、なぜこのような嘘が蔓延するのか。「人が嘘をつくのは、知的弁別力が低く、それに対する羞恥心がない社会では、嘘による利益が大きいため。嘘をついても社会がそれに対し寛大であれば、嘘をつくことは集団の文化として広がっていく」と指摘。「嘘をつくことに寛大な堕落した精神文化は、この国(※韓国のこと)の政治と経済を混乱と停滞の淵に引きずり込む。ゲームに公正な規則や大きな約束がないから」「嘘をつく社会や国家は滅び行く」と警鐘を鳴らす。


それでもこの状況を打開できないのは「韓国の民族主義は、種族主義の神学が作り上げた全体主義的権威であり、暴力。種族主義の世界は外部に対し閉鎖的であり、隣人に対し敵対的。つまり、韓国の民族主義は本質的に反日種族主義」「嘘とでたらめな論理で日帝を批判してきて、また、大多数の韓国人がそのことにあまりにも慣れてしまったため、それが虚構であることが明らかにされると、日帝をどのように批判したらよいのかわからず、当惑させられる」と言われてしまうと、暗澹たる気持ちになる…


が、そんな状況においても、筆者が本書を記したのは「知識人が大衆の顔色を窺ったり、言うべきことを言わず、文章の論調を変えてしまったりしたら、その人は知識人だとは言えない。真の知識人は世界人。世界人として自由人。世界人の観点で自分の属する国家の利害関係をも公平に見つめなければならない」「一般に歴史学者は、他の資料により傍証されない個人の証言を、史料として認めていない」という普遍的な姿勢によるものだ。この姿勢は非常に学びが大きい。


また、歴史を語る上で重要な示唆を与える観点も鋭い。「実際に被害を受けた当時の人たちが全く問題にしなかった人々を、後代の人物たちが断罪した。『後に生まれた幸運を味わう者の暴挙』というしかない」「歴史学者たちは、インタビューが繰り返されると、彼らの記憶が一貫性を維持できないことを知る。昔のことであるため、記憶が薄らいでいることも、前後関係が混乱することもあり、またその間に、新たな記憶が作られることもある。何よりも、記憶を聴取する人との相互作用で、記憶という行為自体を政治化できるというところに留意する必要がある」あたりは、日韓関係のみならず、すべての歴史を後付けで考えないようにするために必要な、真摯な姿勢だと感じる。


事実関係の争いについてもさることながら、筆者の真摯な姿勢、そして真剣に「大韓民国」を思う・憂うが故の記述であることが胸を打つ。
他方、日韓関係における態度はともかく、内政において腐り切っている2021年の日本を省みると、あまり人のことも言えんなぁ、と感じる…

【読了】山内智恵子「ミトロヒン文書」

今年62冊目読了。日本IBM東京基礎研究所を経て英語講師を勤めている筆者が、旧ソ連KGBのもたらした諜報工作に関する文書を和訳し、日本に紹介する一冊。


もちろん、亡命KGBであるミトロヒンの言葉がすべて完全に正しいとは思わない。しかし、その歴史背景や流れ、実際の展開などを考えると、近現代史KGBの暗躍が凄まじいものであったということは間違いないように感じる。


そもそも、情報史学というものが日本においては重んじられてきていないが、「『インテリジェンス』というのは、情報を集めて、どれが信頼できるかを判断して、役に立つものを使い、信頼できないものは捨てる」という日常生活の作業の延長だと指摘。「インテリジェンスで最重要なのは、『相手が何を考えているか』を正確に把握すること」


共産革命によって誕生したソ連という国について「秘密警察による弾圧、強制収容所への大量収容、『反革命』勢力の『陰謀』に対する警戒心と猜疑心といった、いわゆるスターリニズムの特徴とされるものは、実際にはレーニン時代にすべて出そろっていた」「共産党にはもれなく非合法組織がついてくる」とその本質を見据え「ソ連は、自国への国際的な陰謀が存在することを前提にして、体外交策で常に謀略を仕掛けてきた。自分の側が謀略をすればするほど、相手も自分にやっているに違いないと、さらに確信が強まっていく構図。それが結果的に、自滅と大量粛清につながっていく」と喝破する。
そして、1930年代のソ連の実態として驚くのは「ソ連の主敵はイギリスであり、アジアでは日本が最大の警戒対象。当時はまだ、ソ連にとってアメリカでの諜報活動は優先順位が高くなかった」「秘密警察が暴力的に農村を弾圧したから飢饉が起きて、ものすごい社会的混乱になったのに、その混乱を収めるために秘密警察の顕現が『焼け太り』するという皮肉な成り行き」という記述。
そんな中、猛威を振るう秘密警察。「中身はほとんどソ連工作員に牛耳られ放題だったルーズヴェルト政権や、情報機関でフィルビーを大出世させていたイギリスに比べたら、ゾルゲ事件なんて本当にかわいいもの」という指摘には驚くばかり。


では、なぜ、ソ連の西側諸国への諜報は成功したのか。「大恐慌による経済崩壊と、ナチスドイツに代表されるファシズムの台頭」「『世界最初の労働者と農民の祖国』というイメージを信じ込み、ここにこそ人類の未来があると期待して思想的にソ連共産主義にのめり込んだ知識人やエリートがいたから」という指摘は、後知恵でみればバカげているのだが、大恐慌の前に資本主義に対して絶望した当時の人達の感覚を感じ取らねばならないだろう。それは、コロナ禍という状況において監視社会を安易に許す風潮においても同じかもしれない。
他方、「戦後、西側でソ連工作員になる人たちの同期は、はっきりとカネ目当てに変わっていった。ソ連対外工作の黄金時代は、二度と取り戻せない過去の栄光になっていた」というのも納得がいくし「情報機関と言えども、お金がなく、組織の存続も危うくなれば、背に腹は代えられない」もまさに『貧すれば鈍する』の典型ともいえる。


そのわりに、ソ連が適切に政治判断できたかというと、それは別。「スターリンは正しい情報を挙げてきた人たちを誹謗中傷するばかりで、頑として受け入れようとしなかった。こんな状態が続けば、下は上が喜ぶ情報しか上げなくなるので、どんなに優秀な諜報員や工作員がいても意味がない」「どんなに良質の情報があっても、正しく分析して国策に活かすことができなければ何にもならない」「言論の自由が尊重されない社会では、どんなに強力な諜報組織も機能しなくなる」は、まさにそのとおりだと感じる。


ここ数年の安倍・菅政権のグダグダな運営を見るに「文書というものは、政府機関の決定が事後に問題になった時、責任が誰にあるのかを示す拠り所。いざというとき責任の追及から自分の身を守るのも文書だし、政敵の政治生命のみならず物理的生命すら奪う武器になり得るのも文書」「オリンピックは堂々と外国に秘密諜報員、スパイを送り込むことができる絶好の機会」という筆者の記述が哀しいほど嫌な形でよく理解できる。「善政を行うことが防諜の基礎」なのだが…


ソ連は崩壊したが、筆者は「ソ連の工作はどこまでうまくいって、どこに限界があったのか、それ以上にうまくやるにはどうすればいいかを、目を皿のようにして調べて検討している国が絶対ある」「ソ連に比べると、今の中国ははるかに強か。思想や言論の自由全体主義的に規制しつつ、技術革新は積極的に進める体制を作り、西側の市場に打って出ている。中国は西側から奪った知財で製品を作り、西側の市場を奪いに来ているから、脅威の大きさはソ連と比べ物にならない」と指摘。
それに対する日本としては「日本の安全保障は、有事及び平時の破壊工作のための施設・計画・要員が国内に存在していることを前提に考えるべき」「ソ連・ロシア、中国、そして英米諸国の情報工作に振り回されないためにも、日本は日本の立場で情報史学に取り組み、各国の機密文書を読み解く体制を構築してなければならない」とする主張は、とても共感できる。「そのためにもまずは、世界各国の『情報史学』研究に対する理解者が増えていくことが望ましい」と述べる江崎道朗氏の「監修によせて」の言葉は重い。


非常に面白い本であったが、こういった諜報活動の根っこにあるのは「人は弱いので、淡い希望にでもすがりたいもの。いつかは少しはよくなるという希望がなければ、人は生きていけない」という人間の特性のように感じた。

【読了】河野克俊「統合幕僚長 我がリーダーの心得」

今年61冊目読了。海上自衛隊から統合幕僚長まで勤めあげた筆者が、自らの自衛隊46年間を振り返りながら自衛隊と日本の関係、国防、リーダー論を語りつくす一冊。


かつて自衛隊が「人殺し組織」と言われていた時代から、災害時などに頼りになる存在になるまでの歴史を振り返る流れは、日本の国防・国策について改めて考えさせられる。「防衛問題とは一部の軍事マニアのものではなく、常識論だ。例えば、自分は何かあったら友人に助けてもらうが、友人に何かあってもお金は出すが助けないという友人関係は常識的に有り得ない。スポーツでもそうだが、守るだけで攻めることをしなければ試合には勝てない。これも常識だ」という言葉は、まさに身体を張って筆者が体験・体現してきた中身であり、今一度かみしめる必要を感じる。


そのリーダー論は、実践に裏打ちされているので、非常に納得できる。「部下が迷った時に何らかの指示を与え、自分の立場、責任を明確にせよ」「指揮官しか撤収あるいは作戦中止を決断できないし、決断しなければならない。『引く』決断はある意味『進む』決断よりも難しい」など、抱える組織の規模も重さも全く違えども、本当にそうだなぁと感じる。
「トップは腹をくくる覚悟が必要だ」「司令官にとって一番重要なのは『いつでも上機嫌でいる』ことと『朗らかな気分を維持できる』こと」「『資料は少なく』『会議は短く』『電話も短く』」のあたりも、非常に納得できる。そうでないトップに仕えると、非常にしんどい。しかし、自分はこれを実現できているか?と言われると、小さい組織ながらも、全く自信がない…反省だ。


危機管理についても、さすが自衛官。「危機になるとトップは不安にかられ、どうしても自分の周りに人を集めたくなる誘惑にかられる」としつつも「複雑怪奇はけがの元」と戒め、「①情報発信の一本化②危機対応の体制はシンプルであるべき③トップの顔を見せる」と断じる。


安易な改革についても警鐘を鳴らす。「様々な改革、改編をやる際は重々注意しなければならない。ある配置につくと何らかの後世に残る業績を残したいという誘惑にかられる場合がある。もちろん変えるべきものは変えなければならないが、その際にも『伝統』を踏まえることが重要だ」「新機軸を打ち立てることは、伝統を壊すことではない。伝統の上に打ち立てるものだ。伝統を大切にし、継承している組織は土台がしっかりしている」は、つい忘れがちな視点だ。大事にしたい。


人生訓として「自分の力でどうしようもないこともこれからの人生には確かにある。しかし、人生どう転ぶか分からない。常に前向きに、諦めずに進めば必ず道は開ける」「人の覚悟とは本当は大上段に振りかざすものではなく、静かなものだ」「知る者は、好んでやる者には及ばない。好んでやる者は、楽しんでやる者には及ばない」のあたりも、非常に重い。


読書好きの端くれとしては「読書をしている人が必ず正しい判断をすると言えば、それはもう宗教だ。そんなことはない。しかし、読書を通じて論理的思考力を身につけた人が正しい判断をする確立は、していない人に比べ格段に上がると思うし、判断の厚みが違ってくる」という言葉を胸に、精進したい。

【読了】長浜浩明「日本人ルーツの謎を解く」

今年60冊目読了。35年間にわたり建築の空調・衛生設備設計に従事してきた筆者が、その理系的な思考によって、過てる縄文・弥生観に終止符を打つことを目指した野心作。


「ぜんぜん門外漢の人が専門家に挑むんかい!」と思って読み始めたが、あにはからんや、実際に筆者の説のほうが説得力がある。もちろん、自分で原典にあたっているわけではないので、安易に全面賛成をすることはできないが、「それまでの通説にとらわれる」という心理学的にも納得のいく『陥りがちな罠』ということを考えると、案外、門外漢のほうがクリアに問題に向き合えるのかもしれない。それは、播田安弘「日本史サイエンス」を読んだ時にも感じた。


そもそもの通説に対し「『日本人の先祖は縄文人ではなく渡来人である』なる説は、明治・大正期のお雇い外国人モースらによってレールが敷かれた」と一太刀を浴びせ、「如何に高名な作家や知識人でも、明治この方、世に流布されてきた常識や定説というウロコを剥がすことは出来なかった、ということだろう。長年に亘る学校教育や世の中の常識に呪縛されていたのかもしれない」と断じる。


また、とにかく筆者はよく噛みつく。「わが国では、『誤・偽』をより完全に注入した『愚』ほど優秀と見なされ、『誤・偽』を『正・真』としてより完全に受け入れた『愚』が長じて指導的立場に就く場合が多い。そして時に彼らが学者や教師に、学長や総長に、教科書の執筆者や検定官に、知識人や文化人に、作家や評論家に、記者や論説委員に、政治家や役人になって行く」「NHKは、歴史教科書の記述と同じ言葉を用い、定説である『大量渡来』に迎合し、専門家の反論を封じつつ、事実を隠し通したことになる」など、読んでて、何もそこまで言わんでも…という気にすらなってくる。


筆者の述べる「縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」「渡来人はわずかしか来ていなかった」という主張を明確に肯定できるだけの検証はしていないが、少なくとも、筆者の調査・判断スタイルは非常に優れていると思う。
特に共感できるのは「先入観に囚われることなく、最新の正しい事実を把握していなければ誤った理解へと迷い込んでしまう」「ある分析手法が如何に科学的であろうと、一連のプロセスを統計学の作法に従って正しく扱わないと、誤った結論に至ることもあり得る」「数値で表せば客観的な判断基準になるわけではない。裏付けゼロで、率を少し変えれば答はどうにでも動くような計算に、客観性などあろうはずがない」のあたり。正直、縄文・弥生という話しではなく、2021年になってもなお迷走する日本のコロナ対策は、まさにこれらの言葉に語りつくされるように感じる。


かなり文章が攻撃的で、けっこう読むのがしんどいが、なかなか勉強になった。面白かった。

【読了】国分功一郎「暇と退屈の倫理学」

今年59冊目読了。高崎経済大学経済学部准教授の筆者が、人間が生きることについて、暇と退屈という観点から哲学的に掘り下げる一冊。


なかなか骨太だが、自身の抱える問題意識にピッタリ適合したこともあり、かなりのめり込んで読めた。


人類は満たされているのか?というところを起点に「人間は豊かさを求めてきた。なのになぜその豊かさを喜べないのか?」「そもそも私たちは、余裕を得た暁に叶えたい何かなどもっていたのか?」と問題提起。「人は暇を得たが、暇を何に使えばよいのかわからない。なぜ人は暇の中で退屈してしまうのだろうか?そもそも退屈とは何か?」と、本書の問いを立てる。そして「生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は『打ち込む』こと、『没頭する』事を渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である」という状態にも問題意識を持つ。


そして、暇を持て余す人間の欲望の根源に切り込む。「人は、自分が<欲望の対象>を<欲望の原因>と取り違えているという事実に思い至りたくない。そのために熱中できる騒ぎをもとめる」「部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず、気晴らしをもとめてしまう人間とは、苦しみをもとめる人間のことに他ならない」「退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。興奮できればいい。だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であってもかまわない」あたりは、コロナ禍の2021年において、まさにじっとしていることに耐えられなくなっている日本国民(自分を含む)の状況にピタリと当てはまる…


そして、もともと人類の祖先は遊動生活者であったことに着目。「貯蔵は移動を妨げる。貯蔵の必要に迫られた人類が、定住を余儀なくされた」「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた」と指摘する。


暇と退屈の区別については「暇は客観的な条件に関わっている。退屈は主観的な状態のこと」と定義づける。これはなるほど納得できる。


そんな中で、消費社会は恐ろしいサイクルを人々に突き付けている。「レジャー産業は人々の欲求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを創り出す」と指摘。「消費社会は私たちを浪費ではなくて消費へと駆り立てる。消費社会としては浪費されては困るのだ。なぜなら浪費は満足をもたらしてしまうからだ」「いくら消費を続けても満足はもたらされないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。延々と繰り返されるのに満足がもたらされないから、消費は次第に過激に、過剰になっていく。しかも過剰になればなるほど、満足の欠如が強く感じられるようになる」「終わらない消費は退屈を紛らわすためのものだが、同時に退屈を創り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む」というサイクルを見せつけられると、暗澹たる気持ちになる。まさに「消費者は自分で自分たちを追い詰めるサイクルを必死で回し続けている」というわけだ。


また、退屈にはいくつかパターンがあるとする。「私たちは何かによって退屈させられているとき、その何かがもつ時間にうまく適合できていない」という形、「外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になる」という形、そして「なんとなく退屈だ、と感じる私たち」。特に最後のものは非常に危険であり「あらゆる配慮と注意を自らに免除し、ただひたすら決断した方向に向かえばいい。しかも、もはや『何となく退屈だ』の声も聞こえない。決断は苦しさから逃避させてくれる。従うことは心地よいのだ。だからこう言わねばならない。人は従いたがるのだ」と述べるが、この恐ろしさは、まさに田野大輔「ファシズムの教室」でナチスドイツに国民が積極的に加担した姿と相似形を成している。筆者も「大切なのは、退屈の奴隷にならないこと」と警鐘を鳴らしている。


では、どうすればよいのか。「人はものを考えないですむ生活を目指して生きている」という前提がありつつも「ものを考えるとは、それまで自分の生を導いてくれていた習慣が多かれ少なかれ破壊される過程と切り離せない」「大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させる」とし、「日常的な楽しみに、より深い享受の可能性がある」「楽しむためには訓練が必要。その訓練は物を受け取る能力を拡張する。これは、思考を強制するものを受け取る訓練となる。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていく」とする。


非常に参考になることが多い。とにかく、ものを考えたくないという人間の根本的な行動特性を理解したうえで、「今、ここ」で楽しむことを学びながら、ものを考える。このマインドは、飽きっぽい自分にとっては非常に学びが深い。大いに活用していきたい。


一般的にお薦めできるかは微妙だが、とても納得しながら読むことができた。

【読了】レベッカ・コスタ「文明はなぜ崩壊するのか」

今年58冊目読了。シリコンバレーマーケティング会社のCEOを務めた社会生物学者の筆者が、「なぜ文明はらせんを描いて崩壊していくのか」という命題に挑んだ一冊。


文明崩壊の原因について「問題が深刻で複雑になるあまり、社会が対応策を『考えられなくなる』限界である認知閾に達してしまうと、問題は未解決のまま次の世代に先送りされる。それを繰り返すうちに歯車がはずれてしまう」とし「対症療法は成功すればするほど危険が大きくなる。なぜなら目先の症状が消えただけで、完治したと誤解するからだ」とするあたりは、システム思考そのままであり、非常によく理解できる。


「知識と思い込みが肩を並べて共存し、おたがいの存在を脅かさないときには人類は進歩する。しかし、複雑さのせいで知識の取り込みが手に負えなくなってくると、あとは思い込みしかない。停滞と思い込みが社会に現れ始めると、崩壊のお膳立ては整ったといえる」という洞察と「単純な手法では歯がたたないとわかったとき、宗教という思い込みが一気に流れ込み、知識の後釜におさまった」という指摘はかなり興味深い。


そして、人間が陥る罠のスーパーミーム(社会に広く受け入れられている情報、思考、感情、行動)こそが危険だとする。「スーパーミームがひとたび定着すると、もはやそれ以外の選択肢を創造することが難しくなる。それを否定する証拠を突き付けられても、私たちはなお信じ続ける」「先進的な文明では、知識を獲得するのが難しくなってくると、思い込みが知識に勝ってしまう」「思い込みは、知識獲得の能力に反比例して強くなる。脳の処理能力を超えた複雑な事態に直面すると、私たちはあやふやなイデオロギーに染まり、『長いものに巻かれる』心理に支配される」「意識的な決断より、同調のほうがはるかに楽」のあたりは、心理学をかじっていればすぐに理解できることだ。それが文明崩壊をもたらすのは、なぜなのか?


スーパーミームの罠①:反対という名の思考停止
「『何でも反対』の文化は、思考や行動が画一化しがち」「手に負えない状況に直面した時、私たちはまず良く知っているものに逃げ込む。たとえそれが失敗を意味するとしても」「未知のものに近づくときは危険がともなう」という指摘ももちろんだが、「扱いきれない問題に直面した脳は、自らの能力に合わせて問題を単純化してしまい、従来の解決策で対応しようとする」が非常に危険だ。かのアインシュタインも『いかなる問題も、それをつくりだした同じ意識によって解決することはできまない』と指摘しているとおりである。
スーパーミームの罠②:個人への責任転嫁
「問題が複雑で危険になり、対処不能となると、指導者は脅威を回避する責任を個人に向け始める。そうなると、本来ならば問題解決のために使われるべき資源、労力、関心が、個人攻撃に向けられる」という指摘は、2021年コロナ禍の日本には重く響く…「今日、私たちを苦しめる問題はほぼ例外なくシステムに由来する。さまざまなプロセス、社会制度、法律、テクノロジー、行動、価値観、信念、伝統、そして進化の限界が迷路のように複雑にからみあい、意図せざる形で副産物を生み出す」というのが実態なのだが。
スーパーミームの罠③:関係のこじつけ
「これが出現するのは、1)相関関係を原因だと思い込む。2)リバース・エンジニアリング(都合のよい事実だけつなぎあわせて、望んだとおりの結果を導きだす)で証拠を操作する。3)多数決で基本事実を決定する。の3つが成立した時」とし「事実をしっかり把握できないと、手ごわい驚異の原因を見極める能力も失われる。知識の代わりに思いこみを受けいれる『システム』ができあがってしまう」と警鐘を鳴らす。
スーパーミームの罠④:サイロ思考
「共通の目的を持つ個人や集団が協力することを促すのではなく、反対にそれらの関係を損ね、競争と対立を助長する」
スーパーミームの罠⑤:行き過ぎた経済偏重
「経済的な損益が成功の尺度になり、ビジネスとして優秀であることと、文明として優れていることが混同されるようになった」「たいていの人はお金を得る代わりに心をなくす」というのは直感理解できるし「システム的な問題には障害がいくつもあるが、なかでも最大なのは、実は技術的なことではなく『利益性』なのである」というのは、なるほど納得である。


筆者は、これらを短期の緩和策で処理する試みは失敗する、と断じる。「①緩和策が解決策と混同されてしまう②問題解決への危機感が薄れる③システム的な問題にシステム的に取り組めない④持続可能性がない⑤一度にひとつのことしか改善しない」と述べる。


では、スーパーミームを打ち破るにはどうするか。前提として「文明の成功を支えるのは、多種多様なミーム。発想、技術、信念の選択肢が多ければ多いほど、社会や環境にとつぜん降りかかる大きな変化にも巧みに対応できる」とし「スーパーミームがいかに進歩を妨げるかを理解する」「大胆なパラダイムシフトをあえて選択する」ことを提唱するが、それを実践するのが難しいんだよな…
ということで、もう少し噛み砕いた説明が出てくる。「問題が複雑になると、効率は落ちるものなのだ。本質とか根本原因を理解できないのに、問題にメスを入れることはできない。となると無駄は承知で小さい対策をいくつも実行するしかない」「複雑な問題に取り組むには、並行漸進主義を実践し、知識と思い込みのバランスを快復し、ひらめきを待つ」は、まだ実践可能性を感じる。


では、そのひらめきを起こすには?まず前提として「脳は、これまでに受け継ぎ、経験し、学習したことからしか答えを引き出せない」「ひらめくためには、大いに学習して『中身』を増やすことが肝要」とする。
そのうえで「4人以上10人未満で問題解決に取り組む」「ウォーキングで、脳内でのデータ認識・処理力を上げる」「脳を活発にするため、新しい刺激にさらされる」「休憩やリラクゼーションをとる」「集中し、注意を向け、不要な考えを振り払う」ことを推奨する。
要するに、脳に余計な負荷をかける「重圧、ストレス、批判、否定的な態度、暗い気分」を避け、「一日に6〜8時間の睡眠をとり、脳に良いとされる食べ物を充分摂取して、刺激的な環境で運動する」ことなのだ。それ、現実にはめっちゃ難しいのだが…


コロナ禍にあえぐ2021年。「人類が種として成功した二大要因は、二足歩行とひらめきの出現」という筆者の指摘どおり、何か別の突破口を見出さないと、この閉塞した社会は変わらないのかな…と感じさせられた。2012年の本だが、非常に新鮮に面白く読めた。

【読了】田野大輔「ファシズムの教室」

今年57冊目読了。歴史社会学専攻の甲南大学教授である筆者が、なぜ集団は暴走するのか、について、体験学習形式での講義により、その理論と実態を解き明かしていく一冊。


もともと、この独特な体験学習講義が行われているのはネット記事で知っていたが、NHK「ダークサイドミステリー」で筆者がその実験と共に集団暴走のからくりを解き明かしていて、そこで紹介されていたので読もうと思った本。読んでみると、なるほどこれは面白いし、精緻に組み立てられている体験学習だ。


なぜ、現代において『寝た子を起こす』ようなファシズム体験教育を行うのか。「ヘイトスピーチにも、ファシズムと共通の仕組みを見出すことができる」「ファシズム的と呼びうる様々な運動にはほぼ共通して、複雑化した現代社会のなかで生きる人びとの精神的な飢餓感に訴えるという本質的な特徴がある。それゆえ、そうした運動が人びとを動員しようとするやり方も、きわめて似通ったものとなる」のあたりの言及は、その回答であるとともに、今もそこにある危険だ、ということがわかる。「民主主義が『多数派の支配』と理解されるように社会では、ファシズムの危険性はむしろ高まっている」「複雑な現実を単純化し、わかりやすい敵に責任を転嫁する点で、ファシズムポピュリズムが取る煽動の手法は基本的に同じ」などは、確かに肌感覚として納得できる。


では、ファシズムとは何か。「権威への服従を基盤としながら、敵の排除を通じて共同体を形成しようとすること」と定義づけ、「全員で一緒の動作や発声を繰り返すだけで、人間の感情はおのずと高揚し、集団への帰属感や連帯感、外部への敵意が高まる。この単純だが普遍的な感情の動員のメカニズム」を活用している、とする。確かに「権威への服従が人々を道具的状態に陥れ、無責任な行動に走らせる」「権力者の号令のもと『悪辣な敵』に義憤をぶつけるとき、人びとは正義の側に立ちながら、自分の不満や鬱憤を晴らすことができる。そこではどんなに過激な暴力をふるおうと、上からの命令なので行動の責任は問われない。権威の庇護のもと万能感にひたりながら、自らの攻撃衝動を発散することが許される」という面が「支配者と服従者は一種の共犯関係にあった」という状況を生み出したわけで、ファシズムを「悪魔的な指導者と、弾圧された服従者」とみることを明確に否定する。これは慧眼だろう。


ファシズムを支える高揚感については「人は遊びや祭りなどの非日常的なイベントに参加し、日頃抑えている欲求を発散することで、高揚感や爽快感、他者との一体感を得て、社会生活を営む活力を維持している」「この種の集団行動はいつの時代にもどんな場所にも存在するもので、普通は一時的な興奮を呼び起こすにとどまり、差別やヘイトといった加害行動と結びつくことはあまりない。それが危険なファシズムへと変貌するのは、集団を統率する権威と結びついたとき」とする。そして、それが体験学習において「指導者が力を発揮するうえで欠かせないのは、支持者が一致団結して同じ行動を取る事。これによって生まれる大きな力が、独裁体制を支える規律・団結の力」であり「受講生が集団行動にのめり込んでいく原因として①集団の力の実感②責任感の麻痺③規範の変化が重要」「参加者を突き動かすのは、規範に従うことによって生じる『正しい』という感覚」と、体験レポートからメカニズムを実践的に読み解いていく。


体験学習についての批判に対しては、非常に考え抜かれている。「危険を伴う体験授業には、批判や懸念の声も出るだろうが、そうした声が出るたびに、相応の対策を講じて理解を求めていくしかない。そう覚悟を決めた」筆者は、「感情の『動員』と『抑制』を同時に追求しなければならないところに、この授業の難しさがある」としながら、巧みな工夫をこらしている。それは「普段の生活のなかで自覚なく受容しているものの危険性を認知するには、教育の意図的な介入が必要」という信念に支えられている。これはシンプルに凄いことだ。かつ、人間の盲点に光を当てようとする点も秀逸だと感じる。


「『権威への服従』という社会状況が人間の行動を変化させるのであって、特定の状況では誰もが残忍な行動を取る可能性があると理解すべき」という言及は、非常に重い。ファシズムの犯した過ちを教訓にするためにも、この本は一読の価値がある。