世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】望月俊孝「見るだけで9割かなう!魔法の宝地図」

今年21冊目読了。人材育成、能力開発の講師として働きながら、自己実現法を編み出し、それを伝えている筆者が、悩みや問題を解決して「本当に望んでいる人生」を送ることを提唱する一冊。


やけに本屋で見かけて、ちょっと読んでみるか、と図書館で借りたのだが、一言で言うと「残念な自己啓発ウットリ本」だなぁ。


とはいえ、筆者が心理学などを相当勉強しているのはよくわかる。「『願望』は0.2秒で『言い訳』に殺される」「人間の脳のクセは①省エネ体質②ブレやすい③内省を嫌う④報酬を求める」「与えることで『安心感』『時間』『信用』を受け取る」「人間らしさとは『共感力』『信用力』『創造力』『職人力』」のあたりは、かなり共感できる。


そして「自分の枠を外す」ということについて「①自分のあり方、やり方を変える②自分の制限・限界の枠を外す③望み・願望の枠を外す④世界観の枠を外す」というステップを提唱する。まぁ、これも理解できるし「言葉、イメージ、行動が創造の三要素」というのも納得できる。


しかし、「願望=宝の在り処を描いた『地図』。その宝地図はとてもシンプルなツール」のあたりから、その実現に向けたプロセスのあたりを見るに、なんだかうんざりしてくる。正直、到底「魔法の宝地図」なんて実際にやってみる気は起きない。だったら、何か別の行動を起こしたほうがよほど生産的だ。かつ、自分が望んだ方向にしか行かない、なんて、あまりに非現実的すぎる。様々な引用を見るにつけ、セレンディピティっての、学んでるはずだろうに…


まぁ、この本が向いている人もいるのかもしれないし、それを否定することもしないが、少なくとも「自分にはまったく合わない」。なぜか。それなりに読書好きな自分が、この本を読んでいて、何度も寝落ちしそうになったから。脳レベルで拒否する本が、自分のプラスになるわけもない(笑)。


色々読んでいれば、こういうこともある、ということだ。

【読了】木村泰司「おしゃべりな名画」

今年20冊目読了。西洋美術史家の筆者が、1枚の絵に秘められた時代背景や作者の人生、作品のメッセージなどの物語を読み解き、絵画の世界を広げる一冊。


この人の本は、語り口は軽妙ながら、深い美術への造詣と愛情が相俟っていて、とても面白い。「芸術を目指す道は苦難な道であって、楽しい趣味の範疇の話ではないのだ。西洋美術史を振り返ってみると、芸術家であろうとした過去の巨匠たちの人生は、決して容易ではなかった」「本人が努力をまったくしないまま、今まで誰が願ったことを成し得てきたであろうか?洋の東西を問わず、そしていつの時代においても、自分の夢や希望を達成させるには本人の努力や生きる姿勢が大切であることに変わりがない。そしてそこにプラスして、その人が持っている運や人間関係の縁、そしてご先祖様のご加護といった個人の意思を通り越した様々な要素が味方してくれるのであろう」というコメントに、その想いがあふれている。


この本の利点は、楽しみながら西洋美術についての知見も深められるところ。「歴史画とは、聖書や古典文学、そして古代史や寓意を主題としたもの。歴史画の中でも、画家自身や鑑賞者にも『解読』するために教養を必要とされる寓意画が最も高貴とされていた。そして次に格が高いとされたのが肖像画で、その下に順に風俗画、風景画、静物画となったのである」「17世紀のオランダ風俗画が表面的に描いていることに騙されてはいけない。例えば一見何気なく楽器を奏でているように見えても、それは姦淫に対する戒めであることが多い。また、掃除をしているだけの退屈そうな場面だとしても、それは女性のあるべき姿を推奨しているのである」「17世紀オランダの画家は職業画家であり、お客様相手の人気商売である。したがって、流行にも敏感でなくてはならなかった」「貴族には経済的にも精神的にも時間的にも余裕があったからこそ、恋愛のことしか考えなくてもよかったのだ。ロココ絵画のテーマの多くが、恋愛や男女の戯れにあることがご理解いただけよう」「印象派はフランス古典主義に対する反動で、フランスの美術界にスキャンダラスに登場した前衛的で革新的な美術運動だった」など、勉強になる。


また、「西洋美術において、伝統的に『絵画は観るものではなく読むもの』であり、自分勝手な深読みをすることは禁物」「割り勘は、英語でダッチ・アカウント。これは17世紀後半に3回にわたって起きた英蘭戦争に起因するようだ。イギリス人における反オランダ感情から来た言い廻しであるという。交互に勘定を支払うイギリス人気質から見れば、オランダ人の合理的な割り勘はケチ臭く感じたのだろう」「自らを『ボヘミアン的な芸術家』としてセルフ・プロデュースしたゴーギャンこそが、現代の映画やテレビで演出される『変人タイプ』の画家第一号であり、原型となった」は、おもわずヘェーと唸らされる。


筆者は海外生活が長いため「欧米では社交の席での美術の話は、踏み絵みたいなものである。その発言や答えによって、当人の様々な背景(社会的背景、受けてきた教育、友人関係など)がさらけ出されてしまうからだ。好きな画家を聞かれた場合、印象派の画家よりもオールド・マスターか、いっそ現代美術の巨匠を挙げたほうが、相手が抱くイメージがよいのは確か。そのため、日本における印象派のあまりの人気ぶりに対して、欧米の人達が不思議に思って仕方がない」「芸術家と職人、芸術品と工芸品の境界が曖昧な状態は日本だけの特殊事情といってよく、欧米では通用しない」のように、日本人が気づかない点を指摘しているのも面白い。


ところどころに筆者のアクの強さは出るものの、基本的には非常に読みやすい文体で、美術の素人にもわかりやすく楽しめる。

【読了】谷知子「百人一首(全)」

今年19冊目読了。中世和歌を専攻するフェリス女学院大学教授の筆者が、百人一首のすべての歌の意味、どこが優れているか、歌人たちはどんな人だったか、をやさしく解説する一冊。


これは、ビギナー向けで、それでいて個別に深い話も書いてあり、非常に読みやすい上に理解が進む。娘(小4)に促されて百人一首を覚えようと挑戦している中で読んでみたが、これは本当にいい本だ。


百人一首の面白さについては「百人一首の最大の魅力は何かと聞かれたら、私は『美しい型』だと答えたい。だからこそ、様々な豊かな広がりを持つ文化が生まれたのだと思う」「今と変わらない人間の営みや喜び、哀しみが、この中にはぎっしりと収められている。恋愛、厭世、望郷、四季折々の風物、どの歌も私たちの人生のさまざまな場面を彩る内容を題材にしていて、私たちが人生という道のりを歩んでいくための相棒、友人となってくれることは間違いない」「百人一首のどの和歌も、きゅっと引き締まった感のある場面や、はっとする瞬間など、いわば『絵になる』ひとときをとらえている。様々なカメラアングルでとらえた一種の写真集のようなものが百人一首」と、筆者の百人一首愛が炸裂する。しかし、実際にアラフィフになって百人一首を覚え始めてみると、この気持ちはよくわかる。世の中、体感しないとわからないことは多いものだ。


個別の歌の解説も非常に面白いが、その中でも「自然の前に立ちすくみ、頭を垂れてしまうような畏敬の念、これこそが日本の情景歌の本質である」「和歌が詠む自然は、決して自然そのものではない。箱庭的な自然、優美な自然だけを和歌は素材とした」「おめでたさとほろ苦さはいつも背中合わせ。百パーセントの幸福なんてありえない」「何がかれらを歌に駆り立てたのだろうか。目には見えない心をかたちにすることで、はじめて他人と共有できる、この信念ではないだろうか」「過酷な現実にあっても、いや、そうした過酷な現実を生きていたからこそ、心を解放させた歌が詠みたかったのかもしれない」「どこに行っても悲しみから逃れることはできないという現実は、絶望には終わらない。修行者にとっては、そのまた先を用意してくれる。つまり、修行者は、すべてがこの地点から始まるのだ。こんなに苦しい苦界を捨てて、極楽をひたすら願うという修行の日々が彼らを待っているからだ」など、筆者の卓越した百人一首の世界観の読み解きが、非常に楽しい。


和歌というものについても「和歌を和歌たらしめる特徴は①『ハレ』を題材とする②理想を詠む③限られた世界で共有され、その中で研ぎ澄まされた文化である」「和歌は、自然に意味を与え、人間の文化へと変容させる営み」と魅力を語っており、その面白さは確かに百首の暗唱というところから理解できるのかもしれない。
木村泰司「西洋美術史」を直前に読んだ故、こちらは日本の芸術の真髄だなぁと感じる。百人一首という日本の先達が残した素晴らしく美しい芸術。この言葉で織りなす見事な世界観を、ぜひ体感してみてほしい。

【読了】木村泰司「西洋美術史」

今年18冊目読了。西洋美術史家の筆者が、世界のビジネスエリートが身につける教養として、西洋美術の歴史とその背景をわかりやすく読み解く一冊。


これは非常にわかりやすい。単純に作品を説明するだけでなく、時代背景や流れをあわせて解説してくれるので「マネとモネの違い」すらわからないような初心者(←自分)でもサクサク読める。


なぜ、美術を学ぶのか。「美術を知ることは、その国の歴史や文化、価値観を学ぶことでもある」「西洋美術は伝統的に知性と理性に訴えることを是としてきた。古代から信仰の対象でもあった西洋美術は、見るだけでなく『読む』という、ある一定のメッセージを伝えるための手段として発展してきた。つまり、それぞれの時代の政治、宗教、哲学、風習、価値観などが造形的に形になったものが美術品であり建築」「美術品とは、ある一定の知識や教養を持った人たちが発注し、収集したもの」という説明は、理解できる。


古代の美術については「ギリシャ人にとって人間の姿は、神々から授かったものであり、美しい人間の姿は神々が喜ぶものと考えていた。ここから生まれた『美しい男性の裸は神も喜ばれる』という思想を背景に、『美=善』という信念・価値観があった」「ローマ建築にはギリシャで見られない半円アーチが目立つが、これはエトルリア人の技術。このイタリア土着の半円アーチとギリシャ建築の影響を受けたドリス、イオニア、コリント式のオーダー(円柱)が融合された折衷様式がローマ建築の特徴」「最初のミレニアムだった西暦1000年を過ぎると、教会建築は木造から、より費用がかかる紙の家に相応しい石造りのロマネスク様式へと改築されていった。壁が厚いので、ロマネスク様式の聖堂は窓を大きく取れなかった。アーチがとがっている場合はゴシック様式の尖塔アーチ、古代ローマ建築の特徴である半円アーチの場合はローマ風を意味する『ロマネスク』様式と見なされる」など、なるほどなぁと感心させられる。


中世の美術については「ステンドグラスは文字が読めない人々にキリスト教の教えを伝えると同時に、窓から取り入れられる光をより美しく効果的に演出した。光はキリスト教徒にとって神であり、ゴシック建築では視覚的に神の存在を意識することができた」「ルネサンスとは『再生』を意味する。キリスト教が国教化されて以来、ヨーロッパで否定されるようになった『古代ギリシャ・ローマ』の学問と芸術の再生」「ルネサンス時代の特徴としては、『人間』の地位向上とその尊重がある。小都市国家がひしめくイタリアでは、自国の自由・独立に対する強い意識があり、不安定な政情から生じた市民たちの危機意識が『個人』という意識を目覚めさせる。中世以降、神と宗教がすべての中心だった時代から、再び古代ギリシャ・ローマのように『人間』という存在を強く意識する時代が再生された」「宗教美術を否定するプロテスタント、肯定するカトリック。教会芸術の変革として生まれたのがバロック美術。より見る者の感情、感覚に訴える表現がなされている。聖書中心のプロテスタントとは違い、カトリック教会は、感情・信仰心に訴えることによってさまざまな奇蹟を、字が読めない人が多かった信者たちに信じさせる必要があった」「17世紀オランダ絵画の黄金時代を築いたのは、経済が反映した社会に生きた、裕福な市民階級。同時代のイタリアやフランスは教皇や王家が文化的影響力を持っていた」「フランス的とされるのは、プッサン芸術において視覚化されている『明晰な精神と理性』」「17世紀のフランス文化が『王の時代』で男性的だとするならば、18世紀のロココ文化は『貴族の時代』であり、女性的な文化」「プッサン派(デッサン派)に対し、ルーベンス派(色彩派)は自然に忠実な色彩は万人に対して魅力的であると主張した。理性対感性、つまりデッサン対色彩の戦いが始まった」「古代ローマ皇帝に擬え帝政の権威を高めようとするナポレオンにとって、メッセージ性が強く、古典的な理想美を規範とするダヴィッドの新古典主義こそが相応しい芸術様式」「伝統的に『高貴』とされた歴史画の主題である神話や聖書がラテン語で書かれていたことに対し、ロマンス語で書かれていたロマンスゆえの『ロマン主義』」など、本当に宗教・歴史と芸術が絡み合って成り立ってきた経緯がよく理解できる。芸術、おそるべし。


近代美術については「フランス古典主義は伝統的に『理想化=良い趣味であり、見えるとおりに写してはいけない』という規範があった。しかし、写実主義を信条としてクールベは、フランス古典主義はもちろんのこと、感受性に訴えるロマン主義にも背を向ける。クールベが築いた近代絵画への礎は、伝統的な『見たことのない世界を描く』歴史画的主題から『自分が見たままの世界を描く』という”主題の近代化”」「マネの現代社会を主題とした作品性、そして『絵画の二次元性』の強調と絵画の単純化は、クールベがこじ開けた近代絵画の扉をより一層押し開けることになった」「マネは、近代都市の風俗だけでなく、そこにおける人間の孤独や堕落、そして人間さえも簡単に商品化してしまう近代社会の闇と人生の断片を描き出した」「工業化・都市化・市民社会化の3つの要素が重なった19世紀のイギリスで発展したのは『風景画』」「近代市民社会が発達していく中、新たな絵画の購買層を成していったブルジョワジーは、古典的な高貴さよりも『現実性』を、アカデミー的な理想美よりも『個性』を、そして理性よりも『感性』を重視する傾向があった」「『貴族的』であろうとした美術アカデミーに対し、『ブルジョワ的』であることが印象派の大きな特徴。その点でも印象派はとても『現代的』だった」「ヨーロッパ人のように古典主義に対する先入観が薄いアメリカ人は、文化的コンプレックスを抱いていたフランスからもたらされる新しい美術を歓迎した。元来アメリカ人は、新しいものを受け入れる度量がフランスの富裕層よりある」など、時代背景と絵画の傾向を連動して説明してくれるので、とてもわかりやすい。


エリート云々は別としても、とても勉強になるし、歴史と芸術をいっぺんに頭に入れることができる、非常に優れた本だ。一読をお薦めしたい。


そして、コロナ禍に苦しむ2021年においては「終戦前後に日本の世相や風俗習慣が激変したように、精神的緊張感は長く続くものではなく、その反動は人々の趣味・嗜好を対極的なものに導く」という指摘は、今後を占う一つの視座となろう。

【読了】山本尚「日本人は論理的でなくていい」

今年17冊目読了。中部大学教授、名古屋大学特別教授、シカゴ大学名誉教授にして、ノーベル賞候補の現役科学者である筆者が、日本的感覚を磨くことを推奨する一冊。


傘寿を超えた父親が送ってきた本なので読んでみたが、賛同できる部分と「うーん…」というトンデモ部分がない交ぜになっていて、なんとも微妙な読後感だった、というのが正直なところ。


日本人の特殊性について「日本人の民族性は内向的で、感覚型で受け止め、フィーリング型で対処すると言われている。面白いことに、このタイプを持つ民族は世界で唯一日本人だけだ」「科学技術において飛翔した発明発見をするには、論理から離れた思い切った仮説が必要となる。こうなると論理的なアプローチの得意な民族は、その論理性がかえって障害となるが、幸いなことにこの論理性が日本人にはほとんどない」と述べる。が、正直、このへんがトンデモ理論だなぁとしか思えない。飛翔した発明発見が日本人の得意技なら、じゃ、どうして太平洋戦争で(国力差の問題ではなく、発明の分野において)アメリカに完敗したんだ?と問いたくなる。過去分析もないし、「日本人の独特の民族性を100%活かすことで、人生の様々な競争に勝つことができ、今後の展開が変わってくる」は、ともすれば選民思想に繋がりかねない、非常に危険な短絡思考だ。


基本立脚スタンスがそんなところにあるから、「内向型の人は、物質から自由になろうとし、他人と一つに溶け合おうとすると言われている。対立でなく、和合や融合へ向かう。外向型の民族が物質を大切に考えているのとは全く異なっている」「外向的な民族の自宅は綺麗で家の外は汚い。一方、内向的な民族の自宅は乱雑だが、外は綺麗である。道を5分歩けばどのタイプの国かがわかるのはそのためである」なんていう断言が生まれてくるし、「他国の人と接する際に私たちは、その人の民族性を十分に理解して付き合うことで、良い所を引き出し、100%自分に還元することが可能だと認識すべき」と言われても、違和感しか残らない。もちろん、民族性というのはあるが、それを織りなす歴史(=過去)はそんなに単純ではない。パターン化で人を情報処理していくのは危険だ。


とはいえ、さすが一流の研究者、いいことも言っている。「どんな人でも長所があり、気に入らない人の、あなたにとって気に入らない個性は皆さん方の才能を開花させるカギだと思う」「嫌いな人は自分と違う大切なものを持っていることが多い。そこからこそ、うんと盗もう。これで、あなたはびっくりするくらい成長できる」のあたりはそうだなぁと感じるし「集中しているからこそ、非集中のスイッチを入れることができる。これによって素晴らしいアイデアが不意に出てくる」「今を大切にして、過ごすことこそ生きること」「平易な言葉で話し、聞いている人にわかっていただけているかをいつも念頭におく必要がある。スライド1枚で1つの項目を説明できれば十分」は、ビジネスにも活用しやすい。


いろいろ思うところはある本だが、人の育成について「問題の答えを出すことには習熟しても、問題そのものを作り上げる能力とは全く違う。課題作成能力は創造力の賜物であり、これを育成することこそ、次世代の指導者を作ることになる」「親や先生から見える幸せな道は、その子にとっての『もっとすごいこと』に踏み出す力を奪っている。年寄りは保守的になり、そうしたわずな成功の可能性の存在を認めたがらない。人は皆、大きな可能性を持っているのだから、それを大切にすることこそが先生や親の役割ではないだろうか」はいい点を突いていると思う。


要素はいいのだが、思想がどうにも気持ち悪い。あまり読むことはお薦めしたくない一冊。

【読了】保坂正康「あの戦争は何だったのか」

今年16冊目読了。ノンフィクション作家、評論家の筆者が、第二次世界大戦に呑み込まれていった当時の日本の実態を炙り出し、単純な善悪二元論を排して「あの戦争」を歴史の中に位置づけることを試みた一冊。


これは、非常に面白い。「いわゆる平和教育という歴史観が長らく支配し、戦争そのものを本来の”歴史”として捉えてこなかった」ことが、「日本人全体が、歴史としての『戦争』に対して”あまりに無知”となるに至った。知的退廃が取り返しのつかないほど進んでしまった」という指摘は、まったく正鵠を射ていると感じる。


昭和初期になると、急速に日本は軍国主義化に傾いていくが、筆者は「二・二六によって刻み付けられた”テロの恐怖”は以後、あらゆるところで影響力を及ぼしていくことになる」「”テロの恐怖”が拡がったのをいいことに、軍はそれを巧みに利用していく。『軍のいうことを聞かなければ、また強権発動するぞ…』と、暗にほのめかすのだ。そうすると政治家たちはみな腰が引けてしまい、軍に対して何もいえなくなってしまう」という点、及び「二・二六は当時の日本のある状況に、大きな爪あとを残すことになる。それは『断固、青年将校を討伐せよ』と発言した天皇の存在である。天皇は、その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意思表示することの意味の大きさを思い知り、それを怖れるかのように」という点を挙げ、ターニングポイントとみなす。


その後、日本と日本人は冷静さをどんどん失っていく。昭和15年には「『皇紀2600年』の大式典は、『天皇に帰一する国家像』を象徴するものであり、日本は理性を失った、完全に”神がかり的な国家”に成り下がってしまった」。そして、昭和16年12月8日、ついに太平洋戦争に突入した時の日本の「空気は『二二六事件』に端を発した”暴力の肯定”で神経が麻痺していく感覚と似ているようにも感じられる。鬱屈した空気の中でカタルシスを求める。表現は悪いかもしれないが、”麻薬”のような陶酔感がある」「人間のDNAの中に、”暴力”の支配下での陶酔感に浸れる資質のようなものがあるのかもしれない…」と分析する。


この戦争については「決定的に愚かだったと思うのは『この戦争はいつ終わりにするのか』をまるで考えていなかったことだ。当たり前のことであるが、戦争を始めるからには『勝利』という目標を前提にしなければならない。その『勝利』が何なのか想定していないのだ」「どの国とも異なって、まずは軍部が先陣を切って戦争という既成事実をつくりあげ、さてそれから戦争目的があたふたと考えられ、国民にはとにかく戦争に協力城、勝たなければこの国は滅ぼされると強権的に押さえつけることのみで戦われたのだ」と断じる。「軍事指導者たちは”戦争を戦っている”のではなく”自己満足”しているだけだ。おかしな美学に酔い、一人悦に入ってしまっているだけなのだ」と軍部を批判したうえで「国民の側も、ウソの情報に振り回されていた。国民自身が、客観的にものを見る習慣などなかったから、上からもたらされる”主観的な言葉”にカタルシスを覚えてしまっていた」と、これまた問題が大きかったと述べる。


筆者は「戦争の以前と以後で、日本人の本質は何も変わっていないのだ」「高度成長期までの日本にとって”戦争”は続いていたのかもしれない。ひとたび目標を決めると猪突猛進していくその姿こそ、私たち日本人の正直な姿なのだ」と断ずる。


では、どうすべきか。「自分の私的な体験を普遍化して、いかに歴史の流れに重ね合わせることができるか、それで始めて知的な行為となりうる」という原理をしっかりと押さえ「危機に陥った時こそもっとも必要なものは、大局を見た政略、戦略であるはずだが、それがすっぽり抜け落ちてしまっていた」「戦略、つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく。現実を冷静にみないで、願望や期待をすぐに事実に置き換えてしまう。太平洋戦争は今なお私たちにとって”良き反面教師”なのである」ということを肝に銘じる必要がある、と感じさせられた。


戦争終結のメッセージを首相自ら国民に向けて送る国会演説の草稿で、下村定陸相が「”敗戦”ではなくて”終戦”としてほしい」という注文に対して発した、東久邇宮首相の一喝こそが、我々が21世紀に持つべき立場、視座のように感じる。
「何を言うか、”敗戦”じゃないか。”敗戦”ということを理解することころからすべてが始まるんだ」

【読了】ポール・ケネディ「第二次大戦 陰の主役」

今年15冊目読了。イェール大学国際安全保障研究所所長の筆者が、組織内部の現場に焦点をあわせ、その活躍と技術革新、戦略思想の変遷を描いた大戦史。


歴史家は、とかくトップリーダーの決断・行動を重視し、そこに焦点を合わせて歴史を読み解こうとするが、筆者のアプローチが実に興味深い。原題は「Engineers of Victory」であり、序文で「本書は、1943年のはじめから1944年半ばにかけて急転した戦略、作戦・運用、先述の物語なのだ」と明記していることからも窺い知れる。訳者も「国家であろうと軍であろうと、巨大組織が『大戦略』を実行するには、トップと中間層と現場のそれぞれの働きすべてが重要になる。その中間層のたゆまぬ努力や工夫が大きな戦いの勝機を動かしてゆく流れを描いている」と触れている。


そして、何か特別な要素一つが勝敗を分けた、と断ずることなく、緻密に様々な要素に言及しながら連合国が枢軸国を逆転していく流れを紐解いていく様は、見事だ。


第二次大戦で、技術革新などによって顕著になった航空戦力については、後知恵に陥ることなく「航空戦力論者は、未来に目を向けるしかなかった。過去に例はなく、人間が新たに見出した空を飛ぶ能力が、戦争に革命的な影響を及ぼす可能性があることが、いくつかの手掛かりからわかっていただけだ。だから、航空戦力論者は、実験の必要を感じていた」と指摘。そのうえで「第二次世界大戦では、”海の航空戦力”という現象がどこでも見られたせいで、あたりまえのこととして軽んじられる傾向がある。しかし、そのことは第二次世界大戦全体を通じ、きわめて重要で新奇な特徴だった」「航空戦力がないと、たとえ潜水艦でも制海権を握るのは難しい-いや、不可能だ」「航空戦の作戦上の要諦-地形、目標選定、人間と飛行機をきちんと分析評価すること-は、少しも変わらない」「なによりも貴重な情報源は、空中偵察だった。堅実で、厳密で、客観的だったからだ」と、その優位性を分析する。


また、水陸両用作戦においては「まず、陸地に立てこもる敵に対する侵攻を行うには、特化された部隊と特殊な兵器が必要だ。また、各軍種間の敵愾心を打ち消して、ある種の統合司令部を創らなければならない。上陸に参加する軍隊がいかに高度の技術を持っていて統合されていても、距離、地形、接近のしやすさ、そのときの気象状況の影響を受ける」「大規模で複雑な上陸作戦はさまざまな要素から成るオーケストラで、指揮者がいなければならない-それはチャーチルルーズベルトや連合軍参謀総長や、ひとつの軍種の有力な最高司令官であってはならない。それにはもっと違う逸材-組織化、立案、問題解決の達人が必要とされる」などをノルマンディー上陸作戦を軸に描き出す。


第二次大戦を描くには、チャーチルルーズベルトスターリンヒトラームッソリーニなどの動きにばかり着目されがちだが、筆者は「効率的で信頼できる組織を築くことが先決で、そこを中心に他の物事が動き出す」「勝利をものにしたのは、暗号を巧みに解読できた側ではなく、もっとも賢く強力な兵器を持った側だった」「巨大な生産力は、たくみに手綱をさばいて資源を正しいところに配分しないと、戦時には威力を発揮しない。だれかが-実験を自由にやれるどこかの組織や集団が-解決策を編み出し、それを実践する必要があるのだ」「組織の長がいくら天才的で精力がみなぎっていても、ひとりでやれることではない。支援機構、奨励の文化、、情報と報告の効率的な循環、失敗から学ぶ許容性、物事をやり遂げる能力がなければならない。それをすべて、敵よりも優れたやり方でやらなければならない。それが戦争に勝つすべだ」と、リーダーのみに着目せず、いわば『現場力』というべきものにも目配りをした定義を編み出す。


他の歴史家でも考えそうな「数はたしかに重要だが、数量だけでは勝利は導けない。勝利を収めるには、組織と質というふたつの重要要素を加味する必要がある。そのふたつがなかったら、上層部の人間が下す戦略指令は、なんの意味もなさない」「戦訓というものは、学ぼうとしなければ役に立たない」のあたりは一般的に導き出されるところである。
しかし、「生産量の差異は、ふたつの変動する要因の影響を受ける可能性があり、じっさいそれにかなり左右されていた。一つは地理という要因(と、それを指導者や参謀や設計者がどれほど重視するか)だが、もうひとつは、戦争を遂行するシステムを創りあげることだ。そこには、フィードバック・ループ、柔軟性、過ちから学ぶ姿勢、(すぐに対応することを)”奨励する文化”などの優れた要素が含まれていなければならない。それがあってはじめて、この苦しい戦争に携わる中間層の人びとが、自由に実験し、着想や意見を口にして、旧来の組織の垣根を取り払うことができる」という指摘は、ピーター・センゲ「学習する組織」とシンクロするものであり、非常に興味深い。


そして、日本人としては、旧日本軍への分析は気になるところだが「大きな変革をもたらすのは、上層部の人間だ。指導者や統率力にはそれぞれ、流儀による著しい違いがある。この点で日本は最悪だった。国家元首である天皇は重大な戦略的意思決定から外され、陸軍と海軍に権限が移譲された。陸軍も海軍も(1943年4月に山本五十六が遭難してからは)因循さが前面に出て、内輪でかばい合い、太平洋で開始されたアメリカの創意に満ちた反攻に対処する能力がなかった」「芯テクノロジーはどこかに糸口がなければならない。そのどこかとは、問題解決にいそしむことを容認する余地、つまり軍や政治の文化だろう。この点で、不可解なことに日本の成績はどうしようもないくらいお粗末だった。零戦、赤城型空母、大和型戦艦のようなすばらしい兵器システムは、おおむね1930年代後半の着想と設計が基本だった。その後、新機軸を切り開く日本の能力は、ガタ落ちになったようだった。原子爆弾どころか、ランカスター、マスタング、ウォーカーの恐るべき対Uボート戦隊、小型レーダー、暗号解読機に匹敵するものはその後ほとんど生まれていない」と、滅多切り。まるで、マリアナ沖海戦を筆で行われているがごとくハチの巣にされているという事実は、しっかりと受け止める必要があろう。なぜなら、日本の組織は、概ね戦時体制からそのまま55年体制に移行し、その残滓を引きずり続けて令和にまでなだれ込んでしまっているので。


教訓に満ちた一冊だが、コロナ禍で世の中が大きく動転している2021年においては「個性が強く独特の考え方をする人物に対しては、偏見を抱きがちだ。…われわれは戦時にあり、生命を賭して戦っている。その職歴を通じて一度も論争を引き起こさなかったような人間のみを、陸軍が幹部に任命するようなことを、看過している余裕はない」「問題を解決する人々の作業には、”奨励の文化”という後押しが必要だということも、まったく理解されていない」のあたりの警句をしっかりと受け止めたい。


ガッツリ重厚な記述で、かつ過去の戦争・戦場の名前が当然のごとくバンバン登場するので、戦史にある程度の興味がないと読みこなせないと思うが、それだけの価値がある一冊だ。